3周目

Tuduki2006-01-10

昨日は祝日・成人の日。
私がいま40歳なので、ちょうど私の代が成人式を祝った年度に産まれた赤ん坊たちが、今年の成人式を祝ったことになる……なんだか感慨深いねどうにも。てことは私は今回めでたく“2度目の成人式”を迎え、3周目に突入したということか。


それにしても、20年前の私は、20年後の自分〜つまり現在の年齢の自分が、どのような大人になっていると予想していたんだろうかなぁ?……そんなことを、ふと考えた。ドでかい野望を抱いていたような記憶はまったくないが、まだ未来が輝いていて、人生の選択肢が豊富にあったはずの二十歳の若者だもの、それなりの夢は胸に秘めていたんじゃないかとは思うのだけれど……あんまり思い出せない。少なくとも、平日の昼間からビール呑むような40歳になるとは、その行為の良し悪しを考える以前に想像すらできなかったんじゃないかとは思うが。
そもそも大人になるということに対してどういうイメージを描いていたんだろうか20歳の私は? 新成人祝いの戯れに、そのあたりから記憶の糸をたぐっていこうかと思う。現在の自分の姿と照らし合わせつつ……


「大人になることとは、ネクタイを締めること」
子どものころの私にとっては“大人=ネクタイ”というのが、最も強固なイメージだった。毎日ネクタイをしてスーツを着て満員の通勤電車に揺られるのが大人…そう思っていた。ウチの親父は職人でネクタイとは無縁だったのだが、その反動か、小学生の私は“ネクタイのお父さん”に憧れていた。“ネクタイのお父さん”がいるクラスメイトが羨ましかった。
……のだが、20歳の成人式を迎える頃にはすでに「ネクタイをしなければ仕事ができない職業には就きたくない」と考えていたハズだ。たとえば金融関係の職種なんかで、ネクタイをしてない人がいたら、なんか胡散臭そうで、「コイツ、オレのこと騙そうとしてるんじゃないか?」くらい考えてしまうにちがいないし、逆にネクタイでしかもスーツ姿だったら、それだけでとりあえず第一印象は安心できる気がする。でもそれってつまり、人間個人よりもネクタイのほうが信用されているということだ。私にはそれがものすごくイヤだったのだ…ネクタイのほうに人格があるみたいで。職人の親父は、自分自身〜おのれの腕・技量を見せることが、他人から信用をかち得る手段のすべてだったのだが、そういうほうがわかりやすくていいなぁ…と私は考えた。
そうして私はやがて、ネクタイをしなくてもよい職業を選んだのだ……あいにく信用はまだ得られていない。


「大人になることは、カウンターにひとりで座ること」
鮨屋、割烹、居酒屋、バーなどのカウンターに独りで腰掛けて時を過ごす姿……大人っぽくていいなぁと思っていた。これは大人として臆することなくできるようになったんじゃないかな…と思う。廻転しない鮨屋のカウンターに座るのが怖くなくなったときに、たしかに「大人になったなぁオレ」と思ったものだ。
ただまあしょっちゅう行くような馴染みの店もないし、軽口を叩ける和服の女将も知らないので、達成度は50%弱というところか。家で本を読んだりビデオ観ながら酒呑むほうが好きだからなぁオレ……。


「大人になることは、キャバレーで鼻眼鏡をつけてクラッカーを鳴らすこと」
ちょびヒゲの付け鼻がついたオモチャのメガネをかけて、キラキラ光るボール紙製の三角帽をかぶって、クラッカーを鳴らして大騒ぎしながらホステスのネェちゃんとイチャイチャする……というのは、昭和のサラリーマンの給料日の象徴でした。いつかは自分も会社の上司や同僚や取引先との接待で鼻眼鏡をつけるものだと思っていたけれど……
さすがにコレはやってないなぁ……だいたいそういうキャバレーが滅んじゃったもの。数年前に、亀戸に残る昭和のまんまのキャバレーに行ったことがあるけれど、ホステスの方々も昭和のまんま。世代交代なし。「今は昭和70年かよ!」といったオモムキが醸し出され、まるで考古学調査にでも行ったような気分になったものだ。もちろんホステスのお母さんたちも、客のそうした思いは心得ていて、架空の昭和を楽しんでいるようだった。
昭和がキャバレーなら平成はキャバクラなんだろうけど……私にはちょっと。むしろ自分が大人になった分だけ、自分のカネ使ってさらに小ムスメに気を遣って呑む…という趣旨に馴染めなかった。それなら気が利いてる知り合いの女のコ誘ってメシに行く方がいいじゃん…と。


「大人になることは、つきあいゴルフに行くこと」
早朝の国道脇に立って仲間のクルマが迎えに来るのを待つオヤジ達…というのも、かつてはありがちな光景だった。自分も大人になったら、接待や親睦のために、休日返上したり有給休暇とったりしてゴルフするようになるんだろうなぁ…と思っていた。
やりたくなかったので、やらなくて済んで幸いだ。入社早々、会社の先輩からお古のセットを譲られたけれど、さっさと粗大ゴミに出しました……先輩スイマセン。やってみたら面白いんじゃないかという気もしないでもないが、成田空港を飛び立つときに眼下に広がる景色〜ゴルフ場開発でぐちゃぐちゃになった房総半島の森林〜を見るたびに生理的嫌悪感に襲われるので、まあ今後もやらないほうが無難だろうと思う。


……などなどとアレコレ思い出しているうちに、20歳ごろの自分がどんな40歳になりたかったかおぼろげに思い出してきた。そうだ、20歳の私はマスコミの仕事…それも出版社や新聞など印刷媒体の仕事に就きたかったんだっけ。なんだ、願いは叶っていたんじゃないか。それから私はもうひとつ、世界各地を自在に飛び回りたかったんだっけ……住宅ローンの返済で一生を終えるような人生なんてまっぴら! 紛争も宗教も暮らしも同じ距離感覚で、自分の目で世界の姿を見て回るんだ! そんな思いを胸に抱いていたんだっけ。なぁんだ、こっちは現状とまるっきり逆じゃん。

家族に縛られローンに縛られがんじがらめ…という、20歳の自分が唾棄すべきくだらない人生だと思っていた生活に、いつのまにか陥ってしまっていたのか40歳の私は。でもまあいいや。たとえ20歳の時点に戻って人生がやり直せても、どんな道を辿っても結局はこの位置に辿り着いてしまったんじゃないかな…と思うから。20歳の頃には見えなかったものが、40歳にもなれば見えてくるものだ。そういうものが「かけがえのないもの」に思えてしまったのだから仕方ない。


……さて、“3度目の成人式”を迎えるころには、私はどんなジジイになっているんだろうか?