『キング・コング』を観る

Tuduki2005-12-19

ロード・オブ・ザ・リング』三部作でオスカーを獲得したピーター・ジャクソン監督の最新作『キング・コング』を鑑賞した。'33年のオリジナル版『キング・コング』を9歳のときに観て映画監督になることを決心した…とピーター・ジャクソン監督自身が語るほど『キング・コング』への思い入れは強いんだそうだ。

※写真はイメージです


さて感想だけれど、完成度という目で見れば「ろくでもないシロモノ」としか言いようのない“出来損ない”だ。そう言わざるを得ない。とにもかくにも無駄な要素が多すぎる。本題の根幹を邪魔する要素まみれの、ぜい肉だらけなのだ。


いちばん無駄なのが、本題にはまったく無関係な人物たちの、余計なキャラクター描写。たとえば、冒頭にしか登場しないストーリー進行上まったく必要のない人物を、時代背景(世界恐慌のさなかの大不況時という設定)に絡めて描きつくす。しかも、メインキャラがまだ登場してもいない冒頭だというのに、「このかわいそうな人生に涙してください!」と言わんばかりのゴージャスなBGMつきなのだ。上映開始早々にあきれ返ったよ私は。
またたとえば、船の乗組員の何人かは、そのいわくありげな人生について思わせぶりに描かれるのだけれど、その描写が物語の進行につれてどう絡んでくるかというと……まったく絡んでこない。あんなに描写しといたくせに、ある者はさっさと死んじゃうし、生き残った者たちも、生き残りっぱなしでそのまんま。その後まったく登場しなくなる。これってどうなのよ?


次に無駄なのが、見どころが盛り沢山すぎること。コングの棲む島には、オリジナル版同様に恐竜も棲んでいるし、オリジナルではカットされた巨大昆虫も登場する。それらが次々と登場人物たちに襲いかかったり、コングと闘う場面がたくさんあって、それはもう怪獣好き特撮好きにはこたえらません!…てな具合の出血大サービスぶりなのだが、全体を通してみるとそれが徒(あだ)になってしまっている。恐竜も巨大昆虫もスゴイせいで、主役のはずのキング・コングが単なるワン・オブ・ゼムに成り下がってしまった。本当なら巨大猿キング・コングの破格っぷりを際立たせなければいけないのに、これでは逆効果だ。だいたい、ただの巨大猿と恐竜の生き残りのどっちがより見世物になるか考えたら…答えは自明だろう。鑑賞中にそんなことを冷静に考えさせる隙を観客に与えさせちゃマズイだろうやはり。
また、島の場面に力を入れすぎたせいで、クライマックスのN.Y.でのコング大暴れのときにはすでにお腹いっぱい…な気分になるのも困ったものだ。人間社会で暴れているこっちの場面のほうが、日常に身近だしその違和感を楽しめるしで、クォリティが高いように私には思えたのだが、“お腹いっぱい”でなければ、そのクォリティに見合うだけのもっと大きな興奮が得られだろうになぁ…と残念に思う。ここがキモになるべきなのに。おかげで私がもっとも大喜びしたのは、コングが登場しない「首長竜の牛追い祭り」のシーンになってしまったよ。

そんなわけで、オリジナルの展開に忠実なくせに、3時間超もの大長編映画になってしまった『キング・コング』(注:オリジナル版は100分)。オリジナル版だって人間ドラマのところは段取り展開が多くて、今の感覚からしたら決してスムーズだとはいえなかったのに…モタモタしすぎ。主役のコングが登場するまでに70分も、さらにN.Y.に着くまでに2時間40分もかかるのは、やっぱりマズイよこれは。



……と文句を言い始めればキリがないのだけれど、
それは映画という作品を“商品”と捉えたときの見方であって、創り手が己の命を削って生み出す“なにか”みたいな有機的な捉え方をすれば、ピーター・ジャクソンらの愛情に溢れまくったものすごい映画ということになるでしょう。オタクやマニアならば、源泉かけ流しの温泉みたいな愛情たれ流しっぷりに、クラクラ耽溺できるにちがいない。
タランティーノの『キル・ビル』同様に、「心の底から好きで創ってんだろうなぁ」感がびんびん伝わる多幸感に全編過剰に満ち溢れている今回の『キング・コング』。好きな人にはもうたまらない一品だろう。……完成度の高い日本車よりもイタ車のほうがより愛されるのとおんなじだ。私が無駄むだ無駄と書いた箇所にだって魅力が満ち溢れてみえるにちがいない。
私はマニアでもオタクでもないので、この映画の魅力を理屈で理解はできるんだけれども、そこまで耽溺はできませんでした。……イタ車の魅力もわかるけどさ、ソツがなく完成度が高い日本車のほうが好きだもんなオレ。