保土ヶ谷の思い出

Tuduki2005-05-27

JALは大丈夫なんだろうか。サイパン便全休とは!…グアム便も減数という話だし。乗車率はいいけど利幅が小さいツアー客ばかりで旨味が少ないからやめる…という理由って、相当ヤバくないか? 客が乗っていても儲かってないという現実があからさまなうえに、海外旅行に不慣れなエントリー・ユーザーにJALを“刷り込み”できるチャンスさえ放棄するとは……なんだか悪循環のはじまりっぽいぞ。数年後に振り返ったとき、これがJAL崩壊への端緒だったということになりそうな気さえする。


毎日の歩数を東海道にあてはめたヴァーチャル東海道の旅。
仕事と雑事でバタバタしていたこの数日、記録できなかったために「程ヶ谷の宿」あたりで停滞したままだ。といっても、保土ヶ谷区で生まれ育った私(といっても、相模鉄道沿線なので宿場町とは無縁だったけれど)にとっては、ちょっと懐かしい感じ。

程ヶ谷(保土ヶ谷)の“程”とは“谷”の意味なので、直訳すると「谷の谷」ということになる………のだが、本当は「ほど・ほと」というのは「女陰」のことだ(だってあれも谷間でしょ?)。ああいう形状に似た地形をした谷…というのが由来らしい。道理で小学校の社会課の授業で、定番の「地名の由来を調べてみましょう!」をやらなかったハズだよ。
もっとも、こんな地名の由来をエッチで低俗だと感じるとしたら、それは明治以降の西欧化を模範とした近代教育(の誤解)による偏見に毒されたせいかもしれない。元々ニッポンは性に対して、ちゃんと秩序を保ちながらオープンだったのだ。隠蔽体質のもと、“汚らわしい”ものであるかのように“刷り込み”する近代現代のほうが私にはいびつに思える。谷間や窪地、凹んだ地形などの特徴を「女陰」に喩えた地名は日本中にごろごろある。そりゃそうだよ、未来を築く繁栄の象徴なのだから。

江戸時代、程ヶ谷の人間の気性の荒さは、喧嘩っ早い江戸っ子たちにも知られていたそうで…という話を小学生の頃に本で読んだ。当時のネオン街(?)のひとつ、品川の宿場町あたりで酔って女郎の取り合いなどしてよくケンカになったらしい。それから蛙をよく食べてたそうで、ケンカした江戸っ子たちが大勢で程ヶ谷に乗り込んできた際、仲直りの酒席を設けたのだが、蛙料理を程ヶ谷っ子が旨そうに喰いだしたら、気の強いハズの江戸っ子が逃げ出した……ということも読んだけれど、30年も前に読んだ本の記憶なのでちょっと曖昧。まだ実家に残っているかな、あの本は。

JR保土ヶ谷駅から10分ほど歩いたところに、相模鉄道天王町駅がある。私にはこちらのほうが馴染み深い。天王町や供福寺のあたりには、戦後から高度経済成長期には簡易宿泊所もあり労務者で賑わう飲み屋が立ち並んだそうだ……というのは私の親父の体験談。私の父もそのひとりだったのだ。渥美清だったかハナ肇だったかの映画が、よく行く店のすぐ前で撮影された…みたいな話も親父から聞いた。それからたしか、飲んでる最中に「映画に出演しませんか」と声をかけられたのも天王町だったと言ってたな親父。どんな役だ?…と尋ねたら「インディアンの役です」と言われて、からかってんのかお前は?…とスゴんだら(いや殴ったら、だったかも)、逃げてったそうだ。実際、私の親父は映画や漫画で描かれるインディアンにそっくりだったので、この話には笑った。また、親父のいとこが、TVの時代劇に悪代官役でしばしば登場する役者だったせいか、「あのときスカウトされてれば、俺の人生も変わっていただろうなぁ…」などと夢見る乙女みたいなこと言ってた親父にも笑った。
天王町のなじみの店々にはその後もしばしば通っていた親父だが、私の高校の卒業式の朝、白髪頭を真っ赤に血で染めて朝帰りしてきたのには……心配するよりも先になんだか笑ってしまったなぁ。

タクシーの運転手ともめて深夜に警察から身元照会の電話がくるような、お袋泣かせの親父だったが、程ヶ谷っ子ではなく東北出身だ。仕事を引退した今でも、市営バスの老人パスを使って天王町や供福寺の呑み屋に出かけているらしい。